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成願寺 沿革

   三井家家祖 松樹院墓所                               七保天満宮

今をさかのぼる千百十年前、北野天満宮創建前後菅原道真公側近の侍達が西ノ京に七寺院を建立して菅公の霊を祀り神餞を調達して奉仕していました。その七番目(七の保)が成願寺で当時は神仏混淆“七保天満宮”と称し、菅公自作の十一面観音菩薩を祀り、地元木辻の神部家が奉仕していました。その後一時衰退しましたが、応永年間(1400年頃)に浄土宗の僧空山が再建、浄願寺と改称しました。更に時代を経て堂塔、神殿も荒廃していたのを元禄2年(1689)三井両替店の支配人吉崎傳右衛門が仏門に入り、妙蓮寺日貞上人に師事し教伝坊日行と改名しこの寺を再興することになりました。主人三井高利翁より寺地買収、客殿等の寄進を受け、三井家の全面的な支援を得ることができました。

 三井家家祖高利翁は元禄7年5月6日63歳の生涯を終え、真如堂に葬られました。法名「松樹院殿長誉宗寿大居士」でした。その遺命によって北家二代高平(宗竺)、室町家初代高伴(宗利)が七保天満宮の拝殿、社殿及び寺の本堂を再建し、松樹院の院号にちなんで「松樹山成願寺」と名づけられました。

以後当寺は三井家の祈願所として三井家の庇護の下にあり、境内は東西三十間、南北五十五間余五反七畝ありました。

 明治5年、神仏分離令と廃仏毀釈のため本殿等は壊され、前述の七保天満宮も廃止され成願寺の拝殿、社殿は北野御旅所へ移されました。

 昭和6年、日修上人は宗祖六百五十遠忌にその本堂を拡張し前後五十年間住職されました。戦後三井家の援助もなく荒廃しつつあるのを現住になって墓地の拡張、ガレージ事業等により又檀家の協力もあり書院の増築、屋根の総葺替、庫梩、風呂、便所の改造等整備し、昭和55年宗祖七百年御遠忌を奉修、記念事業に宗祖銅像建立、歴代の墓碑建立しました。玄関も新築し、昭和62年当山開創三百年を記念し明治以前の跡地に木造総桧造りの本堂を再建往年の姿を戻し、旧本堂は大改造して奥書院とし、鐘楼、表門を除く昔日の伽藍に復元し記念法要を奉修しました。

平成14年4月28日日蓮大聖人立教開宗750年を記念し多宝塔「寂光殿」を建立し、法華経自我偈一千巻を納経し永代供養位牌堂並びに納骨供養堂になっています。

  平成24年12月2日、大覚大僧正650遠忌・日隆大聖人550遠忌記念事業として鐘楼堂新築、梵鐘の新調、鬼子母神石像の建立、不動愛染明王の新調、多宝塔寂光殿の漆塗りなど創建当時の伽藍を復元しました。

当山歴代上人の墓   (下)本堂     永代供養墓

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